教育の在り方
入学年齢の引き下げと9月新学期へ移行(富子化政策)
- 入学年齢の段階的な引き下げと9月新学期へ移行
初年は、4月2日生まれから次年の4月30日生まれまでを小学1年生とします。2年目からは2か月づつ引き下げます。つまり2年目は5月1日から次年の6月30日生まれまでを小学1年生とし、3年目は7月1日から次年の8月31日までを小学1年生とします。
初年より9月1日を学校の新学期とし国際的な基準に合わせます。在学生はそのまま初年の9月までをコロナ遅れ取り戻しの猶予期間として移行します。 - 4年目以降も12年間2か月づつ入学年齢の引き下げを実施
4年目以降も2か月間づつ入学年齢を引き下げます。9月1日から次年の10月31日生まれを小学1年生とし、以降16年目まで2ヶ月づつ入学年齢を引き下げることによって約2才半の引き下げが実施されます。
10年経過した時点で結果を検証して残り6年間の引き下げについては見直すこととします。 - 富子化、待機児童減少、子育て世代の負担軽減、労働者不足の改善が見込めます
少子化で各学校の閉鎖や統合などが軽減されます。待機児童が減りますので待機児童対策が軽減され、何よりも子育て世代の負担が減り働きに出られる環境が整い若い世代の職場復帰が期待されます。 - コロナで止まった時間を取り戻しましょう
国民一人一人に自覚を持って頂く必要はありますが、コロナで止まった時間を正常に動かす努力が必要になります。失った時間は取り戻せませんが、無駄を省き専門化することにより取り戻せる事があります。新しい時代に順応してゆきましょう。努力してダメな事より努力しないで失う事の方が損失は大きいのです。
在学生には飛び級を推選(富子化政策)
- 入学年齢引き下げ対象外の小学生は4年生時に飛び級を推選
各学校ごと対象学年で成績優秀者の10%以下を飛び級に推選、本人や家族の同意があれば1学年の飛び級を実施し、飛び級した学年(5年生)の教科書は支給とし必要な飛び級補習を(48時間を最大として本人希望により)各学校で行う。
飛び級は小学校で1学年のみとする。また初年から4年目までの引き下げ対象者も飛び級の対象者とする。 - 入学年齢引き下げ対象外のみならず中学1年生には飛び級を推選
各学校ごと対象学年で成績優秀者の10%以下を飛び級に推選、本人や家族の同意があれば1学年の飛び級を実施し、飛び級した学年(2年生)の教科書は支給とし必要な飛び級補習を(48時間を最大として本人希望により)各学校で実施する。
飛び級は中学で1学年のみとし小学校での飛び級は問わない。 - 入学年齢引き下げ対象外のみならず高校1年生には飛び級を推選
各学校ごと対象学年で成績優秀者の10%以下を飛び級に推選、本人や家族の同意があれば1学年の飛び級を実施し、飛び級した学年(2年生)の教科書は支給とし補習のための学習は個人の裁量に任せる。
飛び級は高校で1学年のみとし小中学校での飛び級は問わない。 - 専門校、大学の飛び級は認めない
専門学校及び大学はそれぞれに於いて専門分野での教育方針があり飛び級を実施する必要性がなく一般教育に配慮する必要もない。
学習は個人の選択とそれぞれの学校の教育方針に委ねる。 - 学生の専門分野活躍を支援、子育て世代の負担軽減、労働者不足の改善
生活するのに必要な事は殆どネットで検索・収集できる時代にあって専門分野への移行開拓は教育分野での必要不可欠な構造変更になる。
構造変更と子育て世代の負担軽減、家族構成の充実が人類の発展に残された唯一の施策となるであろう。
日本の文化はどこにもない表現力に溢れる(富子化文化)
- 世界の共通語には何があるのだろうか
国際標準語として英語が認識されているが、共通語としては、まず思い浮かぶのが数字であろうか。次に数学や専門分野に強い人はギリシャ文字を上げるかもしれない。コロナで有名になった「デルタ」「オミクロン」がギリシャ文字である。次に出てくるのは楽譜であろう。そして最近ではコンピュータ言語になるのではないだろうか。 - これほど豊かな表現力を持つ文化の国は日本しかない
日本語には「漢字」「ひらがな」「カタカナ」「漢数字」「ローマ字」と言った豊かな表現力があり、日本の義務教育を修了した人なら誰でも理解できる。
さらに最近では「顔文字」や毛筆体なども世界から注目を集めている。日本のアニメが世界中から人気になっているのも表形表音文字を主体とした日本文化に由来するのではないだろうか。 - 先人たちが作り上げた日本の人財
日本は国土が狭いから地下資源が乏しく災害大国でもある。だからこそ先人たちの工夫により日本特有の世界に誇れる人財文化が根付いたのではないだろうか。少なくとも私はそう思いたい。 - 物造り大国日本
日本の品質は世界から愛されていると自負している。これも先人たちが作り上げた標準化と人財があってこそ実現できたと確信する。